KAZEG工房 >  散歩 > 

1975年から再開されてた「ヨシ焼き」であったが、2001年度から再び、行われなくなった。 無くなると寂しい気持ちになるので、以前にウェブサイトに掲載していたものを再掲載することにしました。

2月11日、淀川の上流のヨシ原で「ヨシ焼き」が行なわれた。場所は、桂川、木津川、鴨川の3本の川が合流して淀川になるところである。この場所にヨシが生い茂っていて、一年に一度、野焼きが行なわれる。

昔は単に刈っていただけであった。ヨシは燃料、屋根、すだれ、笙(雅楽器)等に利用されていた。ところが、燃料としてはプロパンに、屋根(わらぶき、ヨシぶき)は瓦に、とって代わられて、わざわざヨシを刈り取って利用するという風習はなくなった。

しかし、そのヨシ原に雑草が増えつづけるようになったため「ヨシ焼き」が実施されるようになった(昭和27年ころ)。つまり昔からの伝統行事ではないということになる。

「ヨシ焼き」が行なわれるようになったある時期、飛び火のため家屋が全焼するという事故が起こり「ヨシ焼き」を中止したこともあった。そうなると、また、雑草が繁殖し過ぎたりして昭和50年に復活したのである。

目算で20000坪の土地が火の海となり見ために壮観なため、見物人を多く集めるようになった。しかし、現在では飛び火による家屋焼失といった大きな被害はないけれども、燃焼した際に発生する煙や灰などが近在住民に迷惑をかけている、といった事実もある。そのため、伝統行事としての「ヨシ焼き」には賛否両論があるのは隠せないことである。(96/2/28)。


ヨシ焼きの記念碑

ヨシ焼きの記念碑

焼かれる前のヨシ原

焼かれる前のヨシ原

燃え上がるヨシ原1

燃え上がるヨシ原1

燃え上がるヨシ原2

燃え上がるヨシ原2

写真、ヨシ焼きの縦看板

鵜殿は、淀川河川敷の上牧、前島の間に広がる約60haの一帯で、葭(葦、あし)や萩、背高の大型湿性植物が群生する、自然豊かな地である。
特に葦は、古くから「鵜殿の葭」として、茎が太く、肉厚で弾力性に冨んでいることから、雅楽「篳篥(ひちりき)」の吹き口として重用された。 また近世では、立簾やすだれに編み上げられ、日除けや宇治の茶畑の覆い、寒天を晒す簾に用いられるなど、高槻の特産品の一つであった。
しかし、雑草の繁茂等によってヨシ原が絶滅の危機に瀕したため、昭和50年からヨシ原焼きを復活。毎年2月には、春を呼ぶ伝統行事として多数の人が訪れる。

鵜殿の歴史は古く、日本で最初の仮名書き日記「土佐日記」の中で、著者、紀貫之が承平5年(935)2月に、鵜殿で宿泊したと記している。 又、中世には春日神社領の関所があり、往来する船舶から関銭を徴収していた。「鵜殿葦原」碑は、明治8年(1875)に始まる淀川改修100周年を記念して建立されたものである。 葭は、一般に葦と呼ばれるが、"悪し"通じることから「葭(良し)」に言い換えられたという。 平成2年2月 高槻市教育委員会